嘉永五年(1852)に〔明治7年智恩院75代住職(1814-1871)〕と侍者祐参ならびに法隆寺子院の僧千純らによって奈良法隆寺金堂西壁の阿弥陀浄土図を影写したもの。慶応3年に同上人が放光寺に寄進する。その経緯は当時大藤(現塩山市)出身、のちに幕臣陸軍奉行並支配、江戸城御留守居支配に命ぜられた真下晩菘(1799-1875)が、
放光寺に五百羅漢画像(220幅現存)を当時の画家に描かせて寄進したところ、徹定は晩菘のこの浄業に感喜されてその本尊としてこの三尊図を寄贈する。
当時金堂壁画は相当傷んでおり、欠損した部分も復元的に描き起こしている。紙本に細い墨線で描き、オリジナルの特徴を丁寧にとらえており、要所に着色を施し全体に鮮やかな画面となっている。またその制作上の特徴は、壁画に薄い紙をあて、大まかな線を写し取り、次に細部を写生して図をつくり、その下絵を元に描いたものと思われる。当模写は金堂画の現存最古の模写である。法隆寺壁画が昭和24年1月26日に焼失しているため貴重である。平成12年8月、奈良国立博物館に文化財保護法50年記念特別展「国宝中宮寺菩薩像」に出陣している。