甲州市指定文化財

天正10年(1582)織田信長の兵火を受け伽藍を焼失する。本堂は寺伝によると元禄年間(1688~1704)の建立。桁行九間、粱間六間、一重入母屋造、銅板葺(もと茅葺)で、禅宗の方丈型である。平面は南北に2列、東西に3列の6室からなり、南側に広縁、東西両側に入側を設けている。南面の中央は、板敷、その奥が仏間である。仏間は来迎柱前面に須弥壇が設けられ、本尊を祀る厨子が安置されている。仏間の東に並ぶ2室のうち北室は床の間と付け書院を備えた11畳で、南に15畳間がつづいている。さらに西に並ぶ2室のうち、北室は床の間と付け書院を備えた11畳で、南15畳間がつづく。客室の欄間に安田氏家紋「追洲流」紋様の本組を装飾にしている。建具は腰障子、襖、舞良戸であるが、よく当初のものを用いている。建物の周囲に切目縁を囲し、正面に擬宝珠高欄をつける。屋根は入母屋造で妻飾は狐格子、破風にかぶら懸魚をつける。なお須弥壇囲り付近の改造部分は資料により当初に復元が可能である。この本堂は方丈形式の本堂のなかで、江戸中期の特色を示す貴重な遺構である。(塩山市史)