放光寺(ほうこうじ)は元暦元年(1184)源平合戦で功績をたてた安田義定が一ノ谷の戦いの戦勝を記念して創立しています。義定は平家追討の功によって遠江国守に任命されて、のちに遠江国守護、禁裏守護など勤め鎌倉幕府創業に貢献しておりますが建久5年(1194)8月19日梶原氏らの謀反の嫌疑を受け当山において自刃したと伝えています。義定は京都や奥州平泉の平安文化を甲斐に招来することをひそかにおもい、八尺の阿弥陀三尊をはじめ大日如来、愛染明王、不動明王など多くの平安時代の仏像を勧請しました。源頼朝が奈良の南京佛師成朝を鎌倉に招いて勝長寿院鎌倉の仏像を造顕していますが、義定もまた成朝を甲州に招いて甲州仏師原(現武士原)に一大工房をもって放光寺金剛力士像、毘沙門天像をはじめ甲州の仏像を造られたことが、最近になって専門家の調査で分かってきました。また当山の天弓愛染明王を、かつて良国立博物館の特別展「明王」に出展しましたが、天弓愛染明王として日本最古の仏像ではないかと、研究者からご指摘をいただきました。これも義定の仏教文化への感心の深さを知る一面だと思います。当山にはそのほか義定が建久2年に奉納した梵鐘(貞治5年改鋳)があります。


安田氏の時代は、山岳佛教が競って盛んになった時代です。放光寺もその一つで塩山の北方大菩薩の山麓、高橋荘(現在の一ノ瀬高橋)にあった法光山高橋寺を安田氏の館(山梨市小原)に近い牧荘(塩山市藤木)に移し高橋山多聞院法光寺と改め天台宗寺院として大規模に伽藍を建立し安田一門の菩提寺としました。南北朝期になって真言宗に改宗されました。のちに真言宗七談林にも加えられ真言宗の教えを広める根本道場になりました。
また、武田信玄の時代には、武田家の祈願所となっております。元亀三年三方原の戦いのおり、武田氏は遠州鎌田山医王寺に伝わった大般若経六百巻(南北朝時代の写経)を甲州に移し、当山に奉納しております。天正10年、 武田氏滅亡のおり、隣の恵林寺と前後して織田勢の兵火を受けすべて焼失したのです。現在の建物はその後のもので、仁王門、愛染堂は天正年間(1573~1592)に再建、庫裡は慶長年間(1596~1615)、本堂は柳澤吉保の援助を受け保田若狭守宗雪が寛文年間(1661~1673)に再建しております。

建物の配置をみますと禅宗寺院の影響を受けたことがうかがえます。しかも本堂を拝すると御所造り風にも見え、整った伽藍配置です。氏滅亡のおり、隣の恵林寺と前後して織田勢の兵火を受けすべて焼失したのです。現在の建物はその後のもので、仁王門、愛染堂は天正年間(1573~1592)に再建、庫裡は慶長年間(1596~1615)、本堂は柳澤吉保の援助を受け保田若狭守宗雪が寛文年間(1661~1673)に再建しております。
また當山は江戸時代延宝年間(1673~1681)に山城国総本山醍醐寺報恩院末となり、甲斐国の修験道の中心道場として加持祈祷を盛んに行い、遠くは江戸諸大名の篤い信仰をも受けました。一方京都嵯峨御所大覚寺とも法縁を結び院家にも加えられました。明治27年に至って学山で名高い真言宗智山派総本山智積院へ転末して現在に至っております。

寺の境内には四季おりおりの花が咲きみだれ、一名「花の寺」とも呼ばれています。昔から向嶽寺の松、恵林寺の桜、放光寺の梅と言われて、梅の古木が多くありましたが、近年に代がわりがして若木になっております。梅と前後して椿です。やぶつばき、佗助はじめ40種類の花が咲きみだれる時期もまた良いものです。桜、花桃、山吹、ぼたん、花菖蒲、あじさい、萩と次から次へと花が咲く時期は境内が花一杯になり観光客が最も多い季節です。
また年中行事の中で、主なものを紹介しますと、1月の「七福神めぐり」、4月、5月の「花の時期」、6月の「さくらんぼ狩り」の時期は大変な賑わいです。4月29日(祝日)は当山の鎮守「開運大黒天」の会式、と火渡修行がおこなわれ県内外からの参拝者があります。また当山には「甲州霊場巡礼の集い」の事務局があり、毎月1度県内外の霊場めぐりをしております。また「東郡七福神」の事務局もしております。